知っている女性と知らない女性

自分が過去に接したことがあって、話をしたり、食事や仕事などを一緒にしたことのある「知っている女性」は、その限りにおいて知っている。

そして、その限りにおいて、嫌な思い出になる。嫌な思い出ばかりじゃないだろうという指摘があるかもしれないが、仮にそうだとして、40歳も過ぎたら、良い思い出とされる思い出が存在していることが、それ自体として嫌な思い出になる。彼我の距離、隔絶を思い知るからだ。良い思い出のときには決して戻ることができない。結果、全ての思い出は嫌な思い出になって襲ってくる。


一度も接したこともなく、話をしたり、食事や仕事などを一緒にしたこともない、名前さえ知らない、顔も知らない「知らない女性」は、全く未知だ。そのため、その女性に関しては、嫌な思い出は全くない。嫌な思い出のない女性は、嫌な思い出しかない女性よりは好ましく思う。


以上、従って、知っている女性よりも知らない女性が良い。

愚者のエンドロールの別解を巡って

古典部シリーズ2作目(アニメの8話~11話)「愚者のエンドロール」には以下に示されているような別解が解釈上成立する。

http://d.hatena.ne.jp/suikan/20110904/1315093353

この方の白眉は、「折木姉も見立てを誤る」という仮定を構想したことにある。そして、この点を梃子にして、入須の真意を推理している。


わたしは、もう1点、これに付け加えられそうな構造があるように思う。どういうことか。

入須は折木を手駒として利用して、探偵役を演じているつもりの折木に、実際には推理作家としての行動をとらせているが、折木姉はこの「手駒として利用する」構造が、自分自身にもまた適用されていると見ている(これは、アニメでは省略された、原作中の「地球の反対側の人まで、使っちゃ駄目だよ」から見て取れる)。しかし、入須には折木姉もまた手駒として利用する意思はなかっただろう(「虚勢を張っても仕方ない」から)。


このことは、入須の「手駒として利用する」手口に内在する欠陥である。

入須を慕い頼りにする者に対しては、「手駒として利用する」手口が有効であり、これによってさらに信頼を勝ち取りうる。しかし、入須自身はそのような者を慕い頼りにすることはないだろう。「手駒」に過ぎないのだから。


では、入須自身が慕い頼りにする者についてはどうか。入須が慕い頼りにする者は、折木姉のように、洞察力があり自分にはないものを持っているような人なのだと考えられる。しかし、そのような者であればあるほど、入須の「手口」に気づき、敏感になり、警戒する。そうすると、入須はその真意を伝えて、慕い、頼りにしようと思えば思うほど、そのような相手からは、そのように受け取られず、結果、一定の距離を置かれてしまうことになる。


つまり、親しくしなくても良い者には手口が有効であり、その結果、さらに親しく頼られてしまう。

他方、親しくしたい者には手口が無効であり、その結果、真意ではない意思を感じ取られてしまい距離を置かれてしまう。

この構造は、本作の隠れた構造のひとつであり、作品の基調となっているように思う。入須は入須なりにしんどいのだ。

レッシグの話との比較

そういえばレッシグって人を動かす方法として、「法律、倫理・道徳、経済、アーキテクチャ」の4分類で考えてたけど(それ自体はまぁそうなのかなぁという感じではあるんだけど)、入須の手練手管を見てみると、より具体的な場面において当該ケースにおいては何が機能しているかを考えるにあたっては、あんまり参考にならないというか、メッシュが粗すぎるなぁという感じがしないでもないと思いましたとさ。

「経済」は「見返り」がぴったり合致するのでまぁいい。「法律」は形式的意味の法律だったら制定しようがないけれど、もっと小さい集団における集団意思決定の結果としての規範くらいに緩やかに解してみれば、入須の手練手管の中に合致するものはなくはないかなという気はする(正義感、使命感、露悪趣味あたりか)。

他方で、入須の手練手管には「アーキテクチャ」に相当するものはないなぁということと、あとは全部「倫理・道徳」の範疇だなぁということを思いました。

入須の手練手管

クドリャフカの順番に書かれていることをベースに、自分の理解・解釈をまとめた(理解・解釈部分は斜体+灰色)。

見返りのある頼みごと

  • 相手は見返りによって動く。
  • 相手を信用してはいけない(手抜きに備える)。
    • 長い付き合いにならない場合、相手はやらずぶったくり(労力の最小化)を考えるので、相手が期待どおり動くとは考えず、日程と作業量の余裕、予備計画を用意する。
    • 場合によっては相手にもリスクを負担させる。
    • やらずぶったくりを狙う心理を逆用する方法もある。

見返りのない頼みごと

  • 相手は精神的満足感によって動く。
  • この場合、相手は手抜きしない(物質的満足では手抜きはありうるが、精神的満足では手抜きしない)。
    • カリスマ性
      • 自分にカリスマを感じている相手は、それを理由に、自分に従うことそれ自体で精神的満足感を得る。
      • 使えれば最高。
      • しかし、使おうと思って使えるものではない。
    • 伝統性
      • 相手が、その行動が当該集団の伝統の一貫であると感じることで、それを理由に、その行動を取ることで精神的満足感を得る。
      • 使えれば最高。
      • しかし、使おうと思って使えるものではない。
    • 信仰
      • 相手が、その行動が当該集団の教義に即したものだと感じることで、それを理由に、その行動を取ることで精神的満足感を得る。
      • 強力。
      • しかし、下準備に時間がかかる。また、入須も使ったことがない。
      • 伝統性との共通点は、時間の経過が必要なこと、相違点は、伝統性は伝統となるべく客観的に積み重ねられる必要がありその限りで一定の合理性のある行動である必要があるが、信仰は伝統にまで至る必要はないので合理性のない行動でも動機づけできること。
      • 相手が、自分や他人に愛を感じることで、それを理由に、その行動を取ることで精神的満足感を得る。
      • 強力。
      • しかし、下準備に時間がかかる。また、入須も使ったことがない(!)
    • 正義感
      • 相手が、その行動が取られないことによって生じる(生じている)不正義を是正する行動を取ること、さらには正義を回復することで精神的満足感を得る。
      • 中級以上。
      • コツがわかると汎用性がある。
    • 使命感
      • 相手の性格・立場・属性・役割などを前提に、そこから導き出される使命に照らして、相手がこれに即した行動を取ることで精神的満足感を得る。
      • 中級以上。
      • コツがわかると汎用性がある。
    • プロ意識
      • 相手の性格・立場・属性・役割などのうち、特に、相手がそのことを生業としたプロである場合、特段の使命感を感じていないにしても、プロという自意識に基づいて、相手がこれに即した行動を取ることで精神的満足感を得る。
      • 中級以上。
      • コツがわかると汎用性がある。
    • 自尊心
      • 相手の性格・立場・属性・役割などのうち、特に、相手が性格的に自尊心が強い場合、特段の使命感やプロ意識がないにしても、自分はその程度のことは軽くできる、その程度のこともできない者は自分よりも劣るといった自尊心に基づいて、相手がこれに即した行動を取ることで精神的満足感を得る。
      • 中級以上。
      • コツがわかると汎用性がある。
    • 恐怖
      • 相手が、その行動を取らないことで起きる不利益や害悪を恐怖している場合、これに対応する行動を取ることによって精神的満足感を得る。
      • 正義感、使命感、プロ意識、自尊心の逆である。
      • 千反田が氷菓の販売委託をする場合には、関係がない。
    • 露悪趣味
      • わからん。なんだこれ。
      • 追記。正義感の逆なのかな。例えば当該集団において合意形成された規範があったとして、この規範にそのまま従うべきだというのは「正義感」だけれども、この規範にそのまま従うなどなんて馬鹿らしいんだと仕向けるのは、それを「露悪趣味」と言うかはともかく、正義感の逆なのかなぁというふうに見ることはできるか。
      • 正義感、使命感、プロ意識、自尊心の逆である。
      • 千反田が氷菓の販売委託をする場合には、関係がない。
    • 期待
      • 相手に、相手に頼る他に自分には方法がない、自分は相手に唯一無二の期待をかけていると思わせる。
      • そうすると、ときには自己犠牲さえ厭わず、簡単に尽くしてくれる。
      • 期待はふりだけでも良い。
      • 問題を大きく見せてはならない(相手が自分を助けると、自分が絶体絶命のピンチを脱出すると思わせてはならない)。相手の軽い手助けで、自分が莫大な利益を得たり、致命的な不利益を回避したりすることを、相手は快く思わないことが多い。相手には些細だが、自分にはそこそこ大事というバランスが重要であり、相手の優越感をくすぐるようにする。
      • できれば人目のないところで、異性に頼む。

古典部シリーズの見通し

毎年定期的にはまるんだが、今年はアニメ化してない部分を含め、原作まで読んだので、現時点(いまさら翼といわれてもまでの時点)での、ぼんやりとした見通しを記録に残そうと思った。この手の展開予想は正直うまくいったことはなく、ある種の願望でしかないので、その限りのものでしかない。

伊原摩耶花

浅野真澄との共闘が成立している。従って、この共闘関係の今後が問題となる。

漫画は完成する。しかしそれが伝説になるかどうか、それにつき一悶着あるかはさして重要ではない。むしろ福部里志の状況や関係ひいては古典部の状況や関係が、共闘関係および伊原摩耶花の意思にどう影響するかが重要となろう。

すなわち、現時点では伊原摩耶花福部里志のどこに惹かれてるのかが明確ではない(あるいは単に容姿だけ。目の保養)が、浅野真澄との関係との比較などを通じて、自問自答する場面が出て来るのではないか。

古典部での緩やかな交友関係と、浅野真澄との厳しい共闘関係とが天秤に載る。福部里志は前者側。後述する千反田えるの状況からすると、当面は後者に軸足がかかるであろう。結果、福部里志とは一定の距離が生じることになろう。福部里志側の状況によっては、切り捨てるような展開もあるか。これは福部里志のスタンスにも影響するだろう。

福部里志

見出した進路は仕事人ではなく弁護士であろう。

福部里志は机上での推論を重ねて客観的真実に至るタイプではなく、現場・実地での証拠・事実にデータベースたる法令・判例を適用して合理的結論に至るタイプといえるので、ある意味では向いている。しかし、客観的真実ではないとはいえ、利益衡量のなされた合理的結論であってもそれを下せるかの部分で、また、根本的には様々な分野の玄関先で一通りのことを学んで享楽するという部分で、こだわらないことにこだわるという信念との抵触が問題となるのではないか(あまりないかもしれないが、弁護士により向いているのは伊原摩耶花であり、3ヶ月で抜かされてしまうであろう部分でどうなるか)。

伊原摩耶花については信念を保留した。それは伊原摩耶花の独占や現時点の関係の固定化という面もあろう。よって、前者の面では、浅野真澄伊原摩耶花を寝取られるということになろうから、これまでの追われる立場から追う立場に転じるか、後者の面では、かつての福部里志の側面が出てこないか、つまり伊原摩耶花の可能性を減縮させるように知らないうちに振る舞うことにならないか。この両者の面から、伊原摩耶花との関係に変化が生じるのではないか。いずれにせよ、福部里志の主戦場は古典部それ自体にはなく、伊原摩耶花を巡る関係に限定される。伊原摩耶花についてだけこだわるのだから、古典部にこだわる理由はないだろう。

千反田える

千反田の後継者というはしごを外された。これはそのまま古典部の存続に直結するだろう。

既に関谷純の問題は片付いているし、千反田える古典部を存続させる理由は薄れている。また、これまでの好奇心の発露も、問題解決のシステムの希求・獲得を通じての、千反田の後継者たる資格を得ることにあったのだろうから、そのはしごが外されることによって、好奇心の発露の動機をどこに持っていけば良いか、という問題に直面するだろう。

大日向友子が菩薩と評価した伏線の回収もあろう。菩薩が如来になるのであれば、大日如来であり、太陽であろうから、天岩戸に閉じこもった天照大神をどう外に引っ張り出すか、つまり、千反田えるをどう太陽に転じさせるか、千反田という家の光で照らされることによってその光を保っていた月としての千反田えるが、どう自ら輝くことを獲得するかの問題になるのではないか。それには折木奉太郎の存在をどう受け入れて、評価し、解決するかという問題が関わってくる。

折木奉太郎

以上の3人の状況から自分の進路・思いを考えることになる。

古典部の存続が危ぶまれる。それ自体は、厄介事を持ち込まれる経路・可能性が絶たれることになるのだから、持ち前の省エネ主義に資する。しかしそれで良いのか、自分はそれを望んでいるのか、古典部ひいては千反田えるは自分にとって何なのか、自分の側から求めるべき価値なのではないか、という決断に迫られる。つまり、涼宮ハルヒの消失におけるキョンの立場に置かれる。

他の3人はそれぞれ自分の人生での決断を迫られる。その背景も理由もわかる。閉じこもった千反田えるも含め、折木奉太郎は彼らの自主性を尊重するのがベターだと思うが、他方で、それでは座りの悪い自分がいることに気づく。最終的には、とりわけ千反田えるの存在が自分にとってどんな価値なのか再考を迫られる。翼では無理やり引っ張り出さなかったが、今後は、自分のために、千反田えるを引っ張り出す方向へ奔走することになろう。そしてそれは、千反田えるのためにもなると信じるしかない状況に至るだろう。その思いは、新海誠だったら簡単に裏切られることになるだろうが、米澤穂信なのでそうはならず、より別のところに落ち着くのではないかと思われる。

「盆栽のようなもの」

「AはBのようなものだ」と言うとき、話者は、Bの構成要素のうち特に重要なものや本質を表すものが、Aの中にもあると考えて、そのように言っている。

このとき、聞き手が、Bの構成要素のうち何を特に重要なものや本質を表すと考えるかによって、伝わり方が異なりうる。しかし、聞き手は完全ではないので、構成要素のうち何が特に重要な本質なのかを考える論理操作において、誤ることがある。


盆栽を例にとると、盆栽において、特に重要な本質は、盆栽そのものという具体的な作品、物体であり、盆栽をする行為ではない。

盆栽と他の庭木や観賞用植物とを分かつポイントは、盆栽には、その小さな形状の中に、より大きな全体を垣間見ることができるといういわば「ミニチュア性」があり、この点こそが重要だからである。


このミニチュア性を主たる特徴として、他の副次的な特徴が派生する。

例えば、「まめじゃないと手入れできない」など。

この場合、「まめじゃないと手入れできない」という特徴は、盆栽の重要な本質ではない。

「小さな形状の中により大きな全体を垣間見るということ」を、植物という人間のコントロールがなかなか及びにくい客体を使って表現する過程において、たまたまその特徴が顕現するだけであって、そうではない客体を使って、同じことを行うような全ての場合において、「まめじゃないと手入れできない」という特徴が顕現するわけではないからである。


例えば、シムシティというゲームがある。あれは、ゲームという小さな形状の中に、都市という大きな全体を垣間見るというミニチュア性を重要な本質としているが、決して「まめじゃないと手入れできない」とは言えないだろう。少なくとも、盆栽において要求されるそれとは、要求される水準が全く異なる。食事をしながらだって、音楽を聞きながらだって、ふと思いついたときに、気ままに立ち上げさえすれば、簡単にゲームを続行できる。従って、「まめさ」も「手入れ」も、盆栽ほどには不要である。

しかしだからといって、このことから、「シムシティは盆栽のようなものだ」と言うことが、否定されるべきではないだろう。繰り返しになるが、盆栽の重要な本質はミニチュア性にあり、シムシティもまた同じだからである。


したがって、あるものが「盆栽のようだ」と言うとき、話者は、そのあるものにミニチュア性があると言っていることになる。これに対して、そのあるものが「まめじゃなく、手入れしなくても成立する」ことは、「盆栽のようであること」を否定する理由にはならない。